頭巾を目深に被った男は、開いた本を片手に悠々と歩き続けていた。調整された書庫の照明の下というのに、その顔立ちは絶妙に隠され窺い知ることを許さない。
職員は彼とすれ違うたび怪訝そうに、あるいは見なかった振りをする。初めて声をかけたのは、年若い女の職員だった。

「”逃げ水”さん。いらしてたなら声をかけてくださいってば。快く思われていないの、知っているでしょう」

「うん?ああ、すっかり忘れていた!ほんとほんと、悪気は無いんだ……ところで御令嬢、どこかで会ったかな」

「御令嬢ではありません。ライブラリ管理部門職員のニカです。ちなみに自己紹介するのはこれで十六回目です」

「勿論知っているさ、冗談だとも!」

ニカはわざと聴かせるように溜息をついた。
“逃げ水”──いつのまにか書庫に入り込んでは、資料を読み漁る知の盗人。どれだけ警備を厚くしても何食わぬ顔で入り込み、捕らえてもまさに逃げ水のように消えてしまう。そのくせ閉館時間は律義に守ってくれる。幽霊でも魔術師でもない全く未知のこの存在は、どこかで情報屋などやっているらしい。しかしその正体を調べ上げるには文献も資料も無さすぎた。
“逃げ水”はほとんどの職員に対してまともに取り合おうとしない。ニカは何故か気に入られていることもあり、彼の相手を命じられていた。そう、これでもまだ会話の応酬が成り立っている方なのだ。

「資料の汚損はないとはいえ、あまり調子に乗ると本当に出禁にするんですからね……!」

「ははは!出禁か、それは困る!わかったよ、次から気を付けよう」

思ってもないくせに──彼女は心の中で悪態をついた。顔立ちは未だ不明瞭だが、”逃げ水”の口元には明らかに愉しそうな笑みが見える。

「そうだ、良いことを思いついたぞ!」

「何ですか……また全資料の写しをくれなんて言わないでしょうね」

「ああ……あれはやりすぎた。君達の勤勉さを舐めてかかっていた……すまないと思っている」

未知を徹底的に既知にしたがるのがライブラリの人間だ。この執念深い職員たちは、未知の存在が去り間際に放った冗談を間に受け、写しを取る作業に没頭し出した。もちろん通常の業務もこなしながら。過労で倒れる者すら出始めた頃、ようやく姿を現した”逃げ水”は慌てた様子で軽口を取り下げた。人を害する意図はなかったと、これに関しては何度も謝罪をされている。

「いや、いや、そうではなくてだ……俺をライブラリに入れてくれたまえ!」

ニカは唖然とした。──自由と奔放の擬人化のようなこの男が?

「無理です、人手は募集していません」

「違う違う、資料としてだ!俺はここで存分に調べ物ができる、君達は俺のような存在の研究もできる」

“逃げ水”は食い下がる。奇妙な提案にニカは今度は眉を顰めた。

「ええ……嫌ですよ。どうせふらっと居なくなるじゃないですか……」

「呼ばれたらすぐに来る。約束しよう!ライブラリの所有物扱いでいい、ラベルを貼ってくれたっていい!俺だってそろそろ心安らぐホームが欲しいんだ、わかるだろ?」

「嘘くさ……」

ニカは思案していた。荒唐無稽な提案だが、彼にしては珍しく必死に見える。個人的にはうんざりなのだが、ライブラリ職員としては未知の存在の資料は願ってもないこと。

「私に決定権はありません。……上に掛け合ってみます」

「っ、ありがとう!ありがとうウェラニカ・アンデッセン!!きっとこの恩は忘れない!」

「まだ決定してませんからね。恩なんかより、どうせなら次受付に顔出すのを忘れないでください。」

「もちろんだとも!」

「あんなに喜ばれるとは思わなかったわね。かわいいとこあるじゃない」

終業のチャイムを聴きながら、ニカは廊下を歩いていた。

「あれ……私、あの人に名前教えたかしら」

無意識に名札に触れた。そこには”Nica”としか書かれていない。
不意にぞわ、と総毛立つ。このまま彼の相手をし続けても、自分でも知らないような情報を盗まれるだけなのではないか。

「……。まあいいわ……。あの人なら知っててもおかしくないんだから」

それでも恐怖に好奇心が勝る。ここでは彼女は司書であり、あくまで彼は資料なのだ。読まれた分、読み返してやれば良い。
ニカは書庫への扉を振り返り、にっこりと微笑んだ。

『……以上の理由により、ウェラニカ・アンデッセンの提案を承認します。──ライブラリ統括部門』

ニカはその通知書を手に、今日も書庫へ向かう。